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畑山隆則
男の自伝(徳間書店)より |
昭和50年青森県に生まれる。
小さい時からスポーツが得意で野球部に入り、
打順4番でエースで「青森甲子園」に出場する。
中学時代も野球部で活躍し、エースだった。打順は一番良く打つので1番だったという。
その一方で、喧嘩も強く、他の学校まで喧嘩をしに行く特攻隊長だった。
高校には、野球で推薦入学するが、野球部に入ると、最初は球拾いをさせられる。
先輩がエラーをすると、そのボールを拾いに行かなければいけなかった。
畑山隆則は、ボールがころがっても来ても無視し、
「ナニやってんだお前、捕れよコラァ!」と先輩から怒鳴られると、
「自分がエラーしたんだから、自分で捕れ!」と言い返し、それが大問題になったという。
先輩から目をつけられた畑山隆則は、野球部に居づらくなり、退部した。
ガソリンスタンドでアルバイトしながら夜遊びをしていた畑山隆則は、
自分の将来を考える。
自分は、このままで良いのか。
ちょうどその頃、ボクシングの辰吉選手の世界タイトル戦をテレビで観た畑山隆則は、
その戦いぶりに感動し、自分もボクシングをやろうと思った。
ボクシング専門誌を買い、東京にあるヨネクラジムに電話し、住む場所、働き口を確保して東京に出た。
この時、財布に入っていたのは、わずか2万円だったという。
東京に出て来た畑山隆則は、住み込みの新聞配達をやった。
これまでは、嫌なことがあればキレて喧嘩をしていた畑山隆則であったが、
ボクシングをやるために意識が変わってきた。
「もう覚悟は決めた。ボクシングがきちんとできるまで、俺は何にでも耐える、我慢するって。
ボクサーは、働きながら鍛えてプロを、チャンピオンを狙うモンだから!」
畑山は、チャンピオンになるためだったらどんなことだって我慢するぞと、自分に言い聞かせた。
そんな畑山隆則の心意気が試される瞬間が訪れた。
雨の中を新聞配達していると、新聞が濡れて段々重くなってくる。
ある時、ドシャ降りの雨が降り、自転車をマンションの壁に立てかけて新聞をポストに入れて戻って来ると、
自転車が倒れていて、水溜りに新聞が散らばっていた。
畑山隆則は、呆然と立ち尽くす。
「ナニやってんだ、俺は。情けねえ・・・・」
あまりにも惨めで、虚しくて、このままどこかに行こうかと思った。
「どこへ行く。逃げるか?ウチに帰るか?」
2、3歩、歩いたところで畑山隆則は、踏みとどまった。
「逃げるなんて男じゃない!」
「今の俺に、帰るところなんかないんだ」
畑山隆則は、倒れた自転車を起こして、グシャグシャになった新聞を拾い集めた。
それから、雨に濡れながら新聞配達を続けた。
雨水で汚れた新聞を、そのままポストに突っ込んだ。
後から、苦情の電話が凄まじかったという。
こんなやり切れないことが、2,3回はあったらしい。
ここに、将来大成する人の特徴が現れている。
大成する人は例外なく全員、学歴や才能に関係なく、
我慢強く、人並みはずれた強い忍耐力を持っている。
普通の人ならグレてしまうような境遇に、大成する人も人生の初期の時期に遭遇している。
しかし、その時に道からそれるのか、それないかに大成する人とそうでない人の差が出てくる。
朝は新聞配達をし、昼はボクシングの練習をする畑山であったが、
ヨネクラジムはガッツ石松、柴田国明、大橋秀行ら世界チャンピオンを生み出した名門の大手であり、
畑山隆則は大勢の練習生の中に埋もれていた。
何ヶ月たっても認めてもらえず、丁寧に教えてももらえない。
畑山隆則は、段々練習に行かなくなり、月謝も滞納するようになった。
このままではいけない。
畑山隆則は、もっと小さなジムで自分の才能を見つけ出してくれるところに移ろうと決意した。
畑山隆則は、自分の才能を認めてくれるジムを探そうと、ボクシング専門誌を買った。
京浜川崎ジムの広告『世界チャンピオン製造機、柳和龍トレーナー』
というキャッチフレーズが目に飛び込んで来た。
畑山隆則は、川崎駅にあった京浜川崎ジムを訪れた。
ジムの近くにあった多摩川の河川敷が気に入った畑山隆則は、ジムの移転を決めた。
速攻で引越しの手続きを済ませてしまい、京浜川崎ジムに通い始めた。
練習を開始して数週間後、トレーナーからスパーリングをしてみろと言われ、
畑山隆則は、生まれて初めてリングに上がった。
はじめてリングに上がったはずなのに、相手を見据えてカウンターを狙うボクシングをする。
柳トレーナーは畑山隆則のボクシングセンスを認めた。
柳トレーナーは、2階の事務所に畑山隆則を呼び出して聞いた。
「お前、何のためにボクシングをやっているんだ」
いくら才能があっても、本気でやらない人間はチャンピオンになれない。
「僕は、世界チャンピオンになるために、青森から出てきたんです」
畑山隆則のボクシングのセンスとハングリー精神を認めた柳トレーナーは、
畑山隆則なら自分が鍛えれば世界チャンピオンになれると思った。
「じゃあ、お前、俺と一緒にボクシングをやるか?
俺と一緒にやったら、俺が必ず世界チャンピオンにしてやるから」
柳トレーナーの申し出に畑山隆則は、飛び上がって喜んだ。
「はい、頑張ります」と、畑山隆則は答えた。
「やっぱり俺って才能あったんじゃねーか。
自分の思ったことは間違いじゃなかったんじゃねーか」
畑山隆則は、単にボクシングの才能があっただけではない。
周りから自分の才能を認めてもらえなくても自分の才能を信じ続け、
自分で自分に合ったボクシングジムを探し出したのだ。
自分の運命を自らの力で切り開いていく畑山隆則に、男性としての強い力を感じる。
京浜川崎ジムに移転した畑山隆則は、とび職の手伝いをジムから紹介された。
まだ17歳の未成年であった畑山隆則は、危険なとび職の仕事はしなくて済んだが、
親方からいつも怒鳴られていた。
「馬鹿野郎!」
「この野郎!」
「ボクシングなんかやってるからダメなんだ!」
それを見て、同じようにとび職仲間も畑山隆則を怒鳴り飛ばした。
青森時代の畑山隆則なら、その場で喧嘩になっていたであろう。
しかし、畑山隆則は、ジムから紹介された仕事場だと自分に言い聞かせ、じっと我慢した。
「ボクシングをするためにすべて我慢しなくっちゃと思っていましたから平気だったですけど、
自分でもあれだけ言われてよく我慢したなって思っていますよ」
畑山隆則の話し方には、一点の陰り(かげり)もなかった。
辛い思い出さえも明るく語る。彼の精神力の強さが、そこには現れていた。
柳トレーナーに認められた畑山隆則は、わずか3ヶ月でプロテストに合格した。
プロテストでのスパーリングでは、開始してたった30秒ほどで相手を倒してしまった。
新人王戦でデビューし、平成6年全日本新人王となる。
平成9年初めて挑戦した世界戦では、惜しくも判定で敗れるが、
翌年再挑戦し、世界チャンピオンとなる。
2度目の防衛戦で敗れた畑山隆則は、一度は引退し、芸能活動を始めた。
しかし、芸能活動をする畑山隆則の心にモヤモヤは残る。
自分はこのままで良いのか。
芸能活動は、いつでも出来る。しかし、ボクシングは、若い今しか出来ない。
やはり自分には、ボクシングしかないのではないか。
復活を決めた畑山隆則は、アメリカに渡り、トレーニングを始めた。
成長期であった畑山隆則は、体がどんどん大きくなり、
体重も重くなり、ウエイトコントロールに無理を感じた。
自分の体では、スーパー・フェザー級では、減量に苦しみ、
自分の実力が出せないのではないか。
畑山隆則は、階級を上げ、ライト級でボクシングをやることにした。
畑山隆則の復帰戦は、いきなりWBAライト級世界チャンピオンへの挑戦となった。