このページは男性の生き方シリーズですが、男性にも女性にも参考になる生き方のケースとして
今回はスピードスケーターの岡崎朋美選手をご紹介したいと思います。
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| 岡崎朋美選手 (石井諭氏撮影) |
「こんにちは」
さわやかな笑顔とともにマネージャーの方と現れたスピードスケーターの岡崎朋美選手。
黒いスーツに白いインナーで身を包み、礼儀正しく挨拶をされた後、食事のテーブルにつかれた。
オリンピックに五回も出場したという世界レベルのアスリートなので、
マッチョな女性をイメージしていましたが、実際に普段着の彼女はかわいらしい女性でした。
この肉体のどこにそんなパワーが秘められているのだろう。
それが私の岡崎朋美選手への第一印象でした。

21才でオリンピック初出場
岡崎朋美選手は語りはじめました。
「私は、高校時代、インターハイ最高4位でまったく無名の選手だったんです」
しかし、岡崎朋美選手の素質が、大会で釧路を訪れていた富士急・長田監督の目に止まり、
橋本聖子選手が所属するチームにスカウトされます。
「私は、オリンピックに出たいなんて全然思っていませんでした。
ただ、あこがれの橋本聖子選手と一緒にスケートができる。それだけで嬉しかったんです。
それに、橋本聖子選手と一緒にやれることで、自分が良くても悪くても、
能力の限界が分かると思ったんです。自分がどこまでできるのか、試してみたかったんです」
そして、橋本聖子選手という世界レベルの選手と練習する中、
岡崎朋美選手はメキメキとその才能を開花させていったのでした。
ここに私たちが大きく成功する人たちから学ぶべきひとつの原理があります。
それは、オリンピック選手といえども、最初からオリンピックに出ることを目標にしていなかったということです。
目標が大きすぎると、そこまで到達する道のりは長く、途中で挫折してしまう確率が高くなってしまいます。
ただ目の前の目標を無我夢中になってやっていただけ、
気がついたらいつの間にか周りの人が注目するような
目の見張る成果が挙げられるようになっていたというのが、
結果的に良い結果につながるケースが多々あるのです。
一番良いひとつのパターンが岡崎朋美選手のように
あこがれる先輩や上司のもとで一生懸命やっているうちに自分の能力が開花されるというパターンです。
岡崎朋美選手のこの目標を小刻みに刻んでいく成果達成法はずっと続いていきます。
オリンピックに五回連続出場という偉業を成し遂げたのも、
最初からそうしようとしたのでなく、もう1年、もう1年と続けていくうちに、
結果としてそうなったということではないでしょうか。
故郷の北海道を離れ、1990年に富士急入りした岡崎朋美選手は、
偉大な先輩・橋本聖子選手に食らいついて必死に練習に励みました。
そんな努力がしっかり実を結び、天性の才能が開花しました。
1992年11月の真駒内選抜500mで初優勝、
翌週のW杯軽井沢大会に出場し、世界デビューを果たします。
順調にステップアップしていく岡崎選手は、1993年12月の全日本スプリント選手権で総合4位に入り、
翌1994年2月のリレハンメル五輪500mの代表の座についたのでした。
ついにあこがれの橋本聖子先輩と同じ舞台を踏み、500m14位の成績を残しました。
「リレハンメルのオリンピックは最初で最後と思っていました。
もうオリンピックに出られることはないだろうって思っていたんです。
しかし、オリンピックの会場で実際に経験した高揚感はすごいものでした。
また出たいって思ったんです」
岡崎朋美選手はその後も、世界の舞台に立ち続け、
W杯ローズビル大会(米国)でワールドカップ初優勝、続くカルガリー大会では500mで日本新記録を連発。
2日目には現役選手としては世界最高の38秒92を記録しました。
その年のW杯500メートルでは総合2位になるなど海外でもめざしい成績をあげるようになりました。
国内でも96年と97年の全日本スプリント選手権を総合成績で2連覇日本記録樹立など、
一気に日本のトップスプリンターへの道を歩み始めました。
長野オリンピックで銅メダルを獲得
そして、長野五輪では日本女子短距離として初めてメダル(銅)を獲得し、
「朋美スマイル」で全国的な人気者となったのでした。

椎間板ヘルニアの手術を受ける
98年の長野五輪で銅メダルを獲得し、ソルトレークシティ五輪に向けて
順調に調整を続けていた00年3月、岡崎朋美選手は突然激しい腰痛に襲われました。
以前から患っていた椎間板ヘルニアが悪化したのでした。
「目を開けたら体が全然動かず、痛みで起き上がることもできませんでした。
でもあまりにも痛みがひどかったので、手術を受けようと決心するまで5分とかかりませんでした」
手術を受けるのに迷いはなかったのですか? という質問に
「私自身には、迷いはありませんでした。
スケートを続けるためには手術を受けるしかなかったんです。
監督など周りは戸惑っていましたが。
主治医の先生からは、これまで手術を受けて復活した例は、前例がないと言われました。
しかし、私は北海道の大自然の中で育ち、家が酪農をやっていました。
小学生の時は牛が友達だったんです。
怪我をしても、傷口を水で洗い流したり、なめて治していました。
私は自分の自然治癒力を信じていたんです」
と岡崎朋美選手は力強く語ったのでした。
それまでスケート選手の腰にメスを入れることなど常識的に考えられないとされていた中で、
岡崎朋美選手は椎間板ヘルニアの手術に踏み切りました。
手術後の経過は順調で、1週間は絶対安静と言われてたのに4日目にはもう歩いていたそうです。
五輪イヤーには10年ぶりの日本代表落ちを経験しました。
しかし、それは手術を受ける時から分かっていたことです。
「これがダメでももう1回チャンスがある。そこに賭ければいいんだ」
岡崎朋美選手は、自分の可能性を2001年12月の全日本スプリント選手権に賭けたのでした。
後がない中で臨んだ代表決定戦では、500m初日は5位。
絶体絶命に追い込まれた岡崎朋美選手でしたが、2日目の500m、
岡崎選手は誰よりも速くゴールし、初日との合計で3位となり、見事3度目の五輪出場を決めたのです。
ここに岡崎朋美選手の集中力のすごさがあります。
病気になったからとクヨクヨ悩むのではなく、「もう1回チャンスがある」と療養に全力を尽くし、
自分のすべての意識と力を1回のチャンスに集中させたのです。
これが岡崎朋美選手の勝負強さの秘密のひとつではないでしょうか?
椎間板ヘルニアを克服し、3回目のソルトレークシティオリンピックに出場
椎間板ヘルニアからカムバックし、ソルトレークシティ五輪500mで当時の日本記録を樹立。
合計でも6位入賞と活躍し、観戦した人々を感動の渦に巻き込んだのでした。
トリノオリンピックで4回目の出場
4回目の出場となったトリノオリンピックでは、日本選手団の主将を務めました。
「トリノはコンディションが良かったので、メダルを取りにいったんです。
中国の王曼利選手は全然注目されていない選手でした。
彼女は1回目の滑走では15位くらいでした。
それが、2回目から急に良くなって。
中国の選手って休憩中に何かカラフルなドリンクを飲んでいるんです。
もちろん、ドーピングの検査は受けていますが、
中国とドイツの選手は何か怪しそうな薬をよく飲んでいて、
あれが強さの秘密なのかなと思ってしまったりします」
残念ながら、中国の王曼利選手にわずか0.05秒の差で銅メダルを取られてしまいました。
「この時は、3位と4位の差をつくづく感じさせられました」
2010年バンクーバーオリンピックに5回目の出場
2009年12月、長野市・エムウエーブで行なわれたバンクーバー冬季五輪代表選考会で総合2位となり、
冬季五輪の日本女子で最年長、最多の5大会連続出場を確実にしました。
そして2010年バンクーバーオリンピックに出場。
2月12日の開会式では、日本選手団の旗手を務めました。
残念ながら、同オリンピックでは500m16位、1000m34位と、自己ワーストの成績に終わりました。
常に自分を進化させ続ける岡崎朋美選手
25歳を過ぎれば、肉体的なピークが過ぎ、どんどん衰えていくのが普通です。
「肉体は進化していくんです。そして、技術面や精神面でも進化していきます。
20代の頃はきつい練習をして疲れても、一晩寝たら治りました。
でも、30代になったら、マッサージを受けたり、やるべきことがスケート以外にいろいろ増えてきます。
そうしながら、自分を進化させていくのです」
そして、その言葉通り、自己ベスト記録を出し続けました。
椎間板ヘルニアからカムバックし、ソルトレイクシティ五輪500mで当時の日本記録を樹立。
その後も第一線で活躍を続け、2005年1月には通算7度目となる日本記録更新(37秒73)を
33才で成し遂げ、5年ぶりのW杯優勝を飾りました。
さらに驚異的なのは、2009年3月に行われたワールドカップ最終戦ソルトレークシティ大会で、
自己ベストを4年ぶりに0秒07更新したことです。
37秒66のタイムは、その季の日本選手ランキング1位でした。
37才で自己記録更新。岡崎朋美選手はどこまでも自分を進化させ続ける選手なのです。

岡崎朋美選手の強さの秘密
私が岡崎朋美選手のお話を伺っていて感じたのは、岡崎朋美選手には
良い意味での「図太さ」があり、これが岡崎朋美選手の強さの秘密ではないかということでした。
長野で銅メダルを獲った時点で引退する選択肢もありました。
「もう引退ですよね」と聞かれることは、長野オリンピック以来、しょっちゅうだといいます。
しかし、岡崎朋美選手の素晴らしさは、そこでメゲたり、カチンときて言い返したりしないところです。
「もう引退ですよね」と言われたら、逆に「引退した方が良いですか?」と聞き返すのだそうです。
そうすると、相手は返事に困り、「いや、そんなことはないです・・・」と
口をモゴモゴさせ始めるのだそうです。
相手は何も考えずに無責任な発言をしているだけです。
それに取り合っていても、仕方ありません。
逆に相手に聞き返すことで、無責任な発言に対しての責任を取らせてしまうのです。
なんて賢い女性なんでしょう!
一般の人でも周りの人の無責任な発言に困らせられる機会は少なくないでしょう。
ましてや世界レベルの選手であれば、周囲の雑音はすごいものです。
そのプレッシャーを跳ね返すだけの強い精神力がなければ、この世界では生き残っていけないのです。
マスコミからいろいろネガティブなことを言われてきたでしょうという質問に対しても、
「マスコミはそれが習性ですから」
「それに対処するのもお仕事ですから」
と、淡々と言い放つ岡崎朋美選手。
この力まない強さ、周りの雑音に惑わされないで自分のやるべきことに集中できる強さが、
岡崎朋美選手の勝負強さなのだと思いました。
氷上の結婚式
岡崎朋美選手は2007年8月27日、安武宏倫さんとの婚約を発表。
同年11月24日、所属する富士急行系列のハイランドリゾートホテル&スパで
結婚式を執り行いました。
氷上結婚式は富士急の企画をふたりが快諾して実現し、
およそ3800人の観衆に祝福される中、スケートリンクで
純白のウエディング・ドレス姿を披露しました。

Mainichi Communications Inc.
どのカップルを見ても思うのですが、
良い結婚、良いパートナーシップには、必ずその人にピッタリのパートナーがいるということです。
ひとりでいる時も輝いていたが、結婚してますますその輝きが増してきた。
ひとりでいた時も良かった。でも、2人になったらもっと素敵になった。
そんな結婚をしたいものです。
アスリートとしては世界レベルの岡崎朋美選手も、
ひとりの女性としての人生には不安を持っていました。
「私って本当に結婚できるのですか?」
何度も監督やコーチなど周りの人に尋ねまわったそうです。
そんな中、会社員の安武宏倫さんと知り合いました。
安武宏倫さんからプロポーズされた時、
「私はバンクーバー(オリンピック)を目指しています。私と結婚しても2年間は別居ですよ」
と言ったが、安武宏倫さんは快く承諾してくれました。
人生での心配事がひとつ減り、よりスケートに集中できるようになったのでした。
岡崎朋美選手は山梨で練習、安武宏倫さんは東京で暮らす別居生活が始まりました。
「でも、今は電話もメールもありますから。
もちろん、監督もコーチもファンの方もいらっしゃいますが、
これまでひとりでオリンピック会場に行ってたのが、
今回のバンクーバーは彼が来てくれたのが嬉しかったです」
あせらずにじっと良いパートナーが見つかるまでチャンスを待った岡崎朋美選手。
最近の若い人によくある、何となくつきあう、何となく結婚する、子供ができたから結婚する。
そんな妥協のある結婚をしてしまうと、結局、その場は良くても、
数年もすれば破綻してしまう結婚になってしまいやすくなります。
岡崎朋美選手のように良い相手が見つかるまでは、自分のやるべきことに集中するのが良いのです。
自分のやるべきことをほったらかしにして、結婚相手を見つけることばかりに意識がいっていると、
周りから見ればみっともなく、かえって良い相手が見つかりにくくなります。
自分が輝くから、より良い相手が見つかりやすくなるのです。
結婚は、運命や縁といった問題があり、自分ひとりの力ではどうにもできないところがあります。
自分を磨きながら、満たしながら、じっくりと取り組んでいくしかないのです。
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| 素敵なパートナーとともにいつまでもお幸せに! Mainichi Communications Inc. |
岡崎朋美選手のこれから
さわやかな笑顔で話し、決して高ぶらない岡崎朋美選手には、人を惹(ひ)きつける魅力があります。
長野オリンピック以来、「朋美スマイル」で国民的な人気者になった岡崎朋美選手ですが、
日本のみならずスピードスケートの人気が高いオランダには、
熱心なサポーターがいて岡崎朋美選手のファンクラブがあります。
「岡崎朋美」と漢字で刺繍(ししゅう)の入った帽子をかぶり、応援に駆けつけてくれるのだそうです。
世界中のファンの皆様とともに、岡崎朋美選手を応援していきたいと思います。