東京都豊島区目白 ポセンシアクリニック 美容整形,目頭切開,埋没法,埋没法の抜糸

ポセンシアクリニック-自然に、美しく-
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理想の男性像ー白州次郎

同性にだからエールを送りたい!

男性諸氏に送る院長トーク集
整形して君の何が変わるのか?

これまでモテなかった。

女の子と付き合ったことがない。

いつもフラれてばかりいた。

お見合いで断られてばかりいた。

会社でも怒られてばかりいた。

第一印象が悪くて営業に行ってもなかなか契約が決まらない。

そんな君でも、整形すればカッコ良くなるだろう。

女の子から、モテるようになるかもしれない。

営業に行っても、バシバシ契約が取れるようになるかもしれない。

しかし、何人もの女の子から声がかかるようになって、
君の誠実さはなくなってしまうかもしれない。

遊びグセがついて、まじめでなくなるかもしれない。

仕事に熱中しなくなるかもしれない。

手術を受ければ、君の選択肢は増えるだろう。

君は、これまで女性に選ばれる立場だったかもしれない。

しかし、これからは、女性を選ぶ立場になれるだろう。

仕事も選ぶ立場になれるかもしれない。

手術を受ければ、自分の人生を良くする選択肢、悪くする選択肢
両方が増えることになる。

美容整形は、諸刃の刃だ。

どの選択肢を選ぶかは君次第。

どうせなら、刹那的な喜びを選ぶのでなく、
自分を成功に導く選択肢を選んで欲しい。

男の研究
整形を希望されている男性は、いい男になりたいという希望があるはずです。

いい男になりたかったら、いい男を研究することが大切です。

昭和の快男児と言われる白洲次郎は、いい男のお手本になるひとりだと思います。

ファッションや髪型だけにこだわるのでなく、さらなるハイレベルの男性を目指してみませんか?

男として堂々とした生き方を貫いた白洲次郎の世界をご紹介します。

白洲 次郎
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白洲次郎
1902-1985

1902年神戸に生まれる。

父親は「20世紀の商人」と豪語するほど羽振りの良い貿易商人であった。

17歳から26歳までの9年間を英国のケンブリッジ大学で過ごす。

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昭和15年から晩年までを過ごした
町田市にある武相荘。
町田市が武蔵の国と相模原の国にまたがるのと「無愛想」をかけて名付けられた。
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英国留学時代、白洲次郎が乗っていた
BENTLEY 3LITTER XT7471。
当時英国の貴族の子弟でも持つのは
難しかった最高級のスポーツカーを
2台も持っていた。

昭和15年には、すでに英米と日本の間に戦争が起こり、日本が敗戦すること、日本が敗戦すれば東京は焼け野原となり食糧難になることを予想し、会社を辞め、町田市に農地を買って農民になった
白州次郎の予想は当たり、日本は太平洋戦争に突入することになる。

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昭和3年、フィアンセの正子に
「君こそ僕の発想の源、究極の理想だ」
とメッセージを添えてポートレートを送る。

日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と勝ち続けてきた当時の日本では、ほとんどの人は日本の敗戦など夢にも考えていなかったであろう。

しかし、一年の大半を海外で暮らす白洲次郎には、正確な世界観があったと思われる。

バブルの時期も、ほとんどの人が右肩上がりの経済状況しか予測しなくて大変な事態を招いた。

いつの時代も、正確に時代を読む力は大切だ。

昭和20年日本敗戦。戦後処理の為、当時の外務大臣であった吉田茂氏の要請を受け、終戦連絡事務局参与となり、GHQ(連合国総司令部)との交渉にあたる。

日本政府がGHQに振り回される中、白洲次郎はケンブリッジ仕込みの英語でGHQと渡り合った。

GHQは、アメリカ本国に次郎を「従順ならざる唯一の日本人」として報告した。

当時アメリカは戦勝国であり、「無条件降伏」を地でいかない日本人は、GHQに現場から排除された時代である。

ほとんどの日本人は、卑屈になり、アメリカに従った。その中で唯一白洲次郎は、「戦争に負けたけれども奴隷になったわけではない」と言って毅然とした態度を貫き通した。

白洲次郎は、免職になることなく職務を全うした。
これは、白洲次郎の言うことは筋が通っていたからに違いない。

GHQの民政局長であるホイットニーと初めて対面した時、ホイットニーから、「白洲さん、あなたの英語は大変立派な英語ですね」と言われると、白洲次郎は、「あなたも、もう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と答えたらしい。

きちんとした英国英語を話し、きちんと英国スーツを着こなし、身長も180センチ以上あり体格的にもアメリカ人に決して劣らなかった白洲次郎は、アメリカ人にとっても一目置かれる存在であったであろう。

白洲次郎は苦しい戦後処理の中、弱音を誰にも吐かなかった。

しかし、妻の白洲正子は、白洲次郎が眠ってから寝言で怒りをぶちまけているのを何度も耳にしている。

”Shut up!”

”Get out!”

しかし、その苦哀を決して表に出さないのが、次郎の紳士としての美学であった。

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この写真より日本で初めてジーンズをはいた男と言われる。

白洲次郎は、日本で初めてジーンズをはいた男としても知られている。

サンフランシスコの講和会議のためにアメリカへ行く飛行機での中、周りの日本人は皆きちんとしたスーツの身なりであったが、白洲次郎は機内をジーパンにTシャツで過ごした。

「これから行くアメリカなんてたかだかジーンズにTシャツの国だ。たいしたことなんてない」
という次郎の気概が感じられる。

サンフランシスコ平和条約では、首相の吉田茂はGHQから英文の演説文を渡されていた。

これをアメリカで知った白洲次郎は、「相手国から与えられた文章を英語で読むのはおかしい。
講和条約は対等の関係であるべきだ。日本語で演説をすべきだ」と指示を出す。

近くのチャイナタウンに筆と巻紙を買いに行かせ、演説文を日本語に書き直させた。巻紙は全長30メートル、直径10センチにもなったという。

吉田茂は、羽織袴姿で朗々と日本語で演説文を読み上げ、日本の威厳を保った。

サンフランシスコ平和条約調印終了後の夜、白洲次郎は男泣きに泣いたという。

サンフランシスコ講和会議から帰国し、日本の敗戦処理を終えた白洲次郎は、「僕は政治家じゃない」と言って政界に未練を残すことなくあっさりと身を引き、この後、東北電力会長など、実業界に身を置くことになる。

晩年は、伝統ある軽井沢ゴルフ倶楽部の運営に情熱を注いだ。

白洲次郎は、ここでも自分の生き方を貫いた。

当時、首相であった田中角栄がこのクラブでプレイをしたいと秘書らしき若者から挨拶があったらしい。

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留学時代より大のゴルフ好きで、腕前はハンディ4

「これから田中がプレイしますのでよろしく」

だいたい事情を察した白州次郎は、

「田中という名前は犬の糞ほどたくさんあるが、どこの田中だ」

「総理の田中です」

「それは、(ゴルフクラブの)会員なのか?」

「いえ、会員ではありませんが、総理です」

「ここはね、会員のためのゴルフ場だ。そうでないなら帰りなさい」

そう言うと白洲次郎はそっぽを向いてしまったという。

当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった首相の田中角栄に対してさえも、一歩も引かなかった。

首相であろうと誰であろうと、ルールを守るということを第一にしたのだ。

しかし、白洲次郎は単に意地を張っていたのではない。田中角栄に対しても、公平な物の見方をしている。

その後、ロッキード事件が起こると、新聞はこぞって「容疑者の田中は・・・」という書き方をしているのを見て、新聞社の社長に白洲次郎は、
「田中角栄さんを叩くのはいいですが、あなたの新聞は四年前彼を今様太閤として、戦後日本が生んだ英雄とおだてていました。今、容疑者田中と書くなら、なぜその前に本誌はかつて彼を英雄扱い致しました、これは読者を誤らしめる不正確な報道でした、とお詫びと訂正を載せてからにしないのですか」

と言ったそうだ。

車好きの白洲次郎は、晩年になっても80歳まで、1600ccのエンジンを2400ccに積み替えたポルシェ911に乗っていた。

当時、白洲次郎はポルシェ911には、1600ccのエンジンでなく2400ccのエンジンが望ましいという見解を持って積み替えていたのだが、現在は、ポルシェ911に最初から2400ccのエンジンが積まれているという。
白洲次郎の車に対する見識の高さが、このことからも窺(うかが)える。

自分で車の修理が出来るほど車にも詳しかった白洲次郎は、トヨタのソアラの批評をし、トヨタ自動車社長の豊田は次郎の忠告を生かしたいと思い、ソアラ開発責任者の岡田を次郎に紹介した。
岡田は、次郎の車に対する見識の深さに驚いたという。白州次郎が気に入った車を作りたいと何度も白洲次郎のもとを訪れた。

白洲次郎は、自分の愛車ポルシェ911で東富士試験場に乗り込み、これを分解してソアラを作るときの参考にしたまえと言って愛車を提供した。

1985年11月83歳で亡くなる。遺言は、「葬式無用、戒名不用」のわずか二行だった。

翌年、ソアラは完成する。ソアラを完成させた豊田と岡田は、開発したニューソアラに乗って白洲次郎の墓を訪れ、完成を報告したという。

~白洲次郎さんのご冥福を心よりお祈りいたします。~

(本文中はすべて敬称を省略させていただきました)

付録:白洲次郎がよく訪れたという「誠」(中央区日本橋)
niku
極上国産牛肉の旨みを絶妙の焼き加減で引き出したステーキ。
わさびを添えて賞味するのが「誠」流である。

「誠」には、「うまい料理を出せば、お客さんは必ず来てくれる」という信念から、看板も出さず、メニューもない。

肉の産地も食べ終わるまで教えてくれないとのこと。

店主の高山氏に尋ねたところ、
「その都度、自分でおいしいと思う肉を仕入れ、産地にはこだわっていません」
とのことだった。

ー「誠」を訪れてー
日本橋のわずかに残された少し古風な細道を入ったところに「誠」はあるはずだった。が、・・・・

一向に見つからない。

店に電話をすると、なんと店の人が今居るところまで直接迎えに来てくれるという。

路地から、品の良い店人が出迎えしてくれた。

とても親切だと思った。

いつも思うが、一流の店は、飲物や食事が出される前の接客の時から『何か』が違う。

せっかく来たのだから、白洲さんと同じ物を注文しようと思ったが、店にはメニューがなかった。

店主が最高の食材を最善の調理法で提供してくれるお任せ料理であるらしい。

手ずりのわざびのついたステーキ、今時珍しい手ずりのかつお節がのっているご飯、
おしんこ、食後のしゃれた器に入ったアイリッシュコーヒー、
すべてが本当においしかった。

ちょっとしたアンバランスさも、日本人には丁度良く感じさせる演出のようだ。

白洲さんは、いつも1階の奥の同じカウンター席に座って食事をしていたらしい。

その席に先客がいる時は、2階の椅子に座り、1階の自分が気に入った席が空くまで自分の好きな葉巻をふかせながら待っていたという。

その椅子は、今でも残されていた。

座ってみると、何か白洲次郎の『心意気』のようなものを感じたような気がした。

『屈しない心』
私は、戦争体験者ではない。

だが、想像するに、敗戦直後の日本は本当にみじめだったのかもしれない。

何を信じて良いのか分からず、異国人に命じられるままに従い、むやみに尊敬する。

敗戦という思いがけない屈辱感が、自国への愛国心のなさや自分自身のアイデンティティーを喪失するきっかけになったのかもしれない。

『自分』が主体となるのではなく、
「みんながやっているから・・・・」

「まわりが言うから・・・・・」

という時代の風潮の中、
時には、
「いいえ、私はこれなんです」

「自分は”この道”の人なのです」

と胸を張ってみる。

時には、そんな
『屈しない心』が小さな変化をスタートさせるきっかけになるかもしれないと、思った。

人間、たった一度しかない人生なのだから”自分の正道”を知り、または、探していくうちに、”屈しない強い心””自分への誇り”のようなものが生まれ、それが時には、自分を一番応援し、勇気づけてくれるパワーになることもあるのではないか・・・

ふと、そんなことを思った。

参考文献:本文の内容は、新潮文庫「風の男白洲次郎」、講談社文庫「白洲次郎の生き方」、平凡社「白洲次郎」、サライなどを参考にさせて頂きました。写真は雑誌「サライ」2004年9号より転載させて頂きました。

白洲次郎の英語とその背景
白洲次郎さんの英語は非常に流暢(りゅうちょう)でしたが(普段は日本語で話をされていましたが、感情的になると日本語が出てこなくなり英語で怒り始めたという有名な逸話があります)白洲次郎さんがイギリスにおられた1920年代の英語で、現代のイギリス英語とは少し違います。

1980年代のことですが、オックスフォード大学を卒業し、S.G.ウォーバーグ社に入社したChristopher Purvis氏は、日本に駐在し、白洲次郎さんと気が合い、親交を深められたそうです。

Christopher氏のオフィスにやってきた白洲次郎さんは、
”Please come and have a spot of lunch.”(昼食にいきましょう)
と言ったそうですが、現代イギリス英語では、”spot of lunch”なんて言い回しは使わないので
Christopher氏は、
「”spot of lunch”(”spot of”には少量の意味があります)ではなく、
”huge lunch”(大量のランチ)にしましょう」と言って笑ったそうです。

イギリスに在住され、白洲次郎さんと実際に何度かお会いになられたことがあるという方にこの話をお伝えしたところ、コメントをメールでいただきました。

この方は、英国・日本の両方の文化に精通されておられ、いただいたコメントの内容も読者の方々の参考になると思いますので、引用させていただきたいとお願いしたところ、
「英国文化・風習等の背景を理解するのは、当事者以外には暗号的であるということをしばしば耳にいたします。特に、白洲氏が育った環境は、貴族的伝統が色濃く残る最後の時代ですので、彼の陳述を理解するには、彼の触れた英国を知ることは必須かもしれません。
白洲氏を理解する上で、少しでも読者の方々の役に立つのであれば、全く差し支えございません」

と、快諾をいただきましたので、ご紹介させていただきます。

Without knowing Mr Shirasu’s background, hearing this expression “a spot of lunch”
would utterly baffle the listener as if an English gentleman turned up
in the form of a Japanese man from the bygone era by time machine.
As you may probably know, during the time Mr Shirasu spent in England
between just after World War I (1919) and the Great Depression (1929),
luncheon had to be always a spot as it was sandwiched by two proper sets of tea
served by servants, first, at around 10am and, then, at after 3pm.
With tea being a meal in practice, no Cantabian was hungry for a huge meal at lunchtime.
By the 1980’s, everything was “Americanised”,
i.e., either overly simplified or totally scrapped at one extreme.
Tea as the 17th century ritual disappeared, and even the word luncheon was abbreviated to lunch,
became substantial in quantity in order to substitute for previous tea and luncheon.
Lunch also had to be “consumed” rapidly only for a practical purpose
to satisfy a basic physical necessity rather than to provide opportunities to socialise
with the others in a relaxing manner.As a product of the classical English system falling in the last generation of English gentlemen,
I doubt Mr Shirasu “Americanised” the way he performed his daily rituals
except for the wartime ever since he had left the Fens.
If so, it was perfectly normal for Mr Shirasu to offer a spot of lunch even in the 1980’s.
白洲次郎さんのようにハッキリと
「NO」という力を身につけましょう!

「NO」と言えれば人生は開ける!
断る力で人生を好転させるアサーションの方法

cover

ポセンシアクリニック院長 永久晶浩著

「NO」と言うことができた数少ない日本人の白洲次郎さん。

マッカーサーやホイットニー他、GHQに対して、また、時の首相であった田中角栄氏に対してなど権力に屈することなく、盲目的に従うことなく自分が言うべき時にはハッキリと「NO」と言いました。

自分の美学を貫いた人です。

このような「NO」と言う力を身につけるための本を書きました。

ご参考になれば幸いです。

ご購入はこちらから

 

美容整形を受けにご来院される方、特に男性の方には、
ご自身の人生を模索中の方が少なくありません。
いろんな人々の生き方の中から自分自身の道を見つけ出していただければと思います。

72歳になる元学校長先生からお手紙をいただきました。
ご本人から掲載の許可をいただきましたのでご紹介いたします。

「突然のお手紙で大変失礼とは存じますが、
先生のホームページを見て感激しましたので、一筆したためる事にいたしました。
お許しください。

私は現在72歳になる退職公務員です。
教育委員会から中学校長で退職し、私立の保育園長を務めました。
自分の趣味を存分にいたしたいと思い、自主退職したものです。

私は今まで、美容整形に関しては失礼ですが、全くこの世の害毒とさえ思っていましたが、
このたび先生のホームページを見て考えを180度転換いたしました。
その理由は簡単です。
先生の主張されている男のイメージがなんとその精神構造にまで及んでいたからです。

特に「美容整形は諸刃の剣だ。・・刹那的な喜びを選ぶのではなく、
自分を成功に導く選択肢を選んで欲しい」と言う言葉は
従来の利益優先のこの世界にあって、
随分思い切った主張であるとともに、絶大な共感を呼びました。
続けてその事例としての白州次郎に関しては、
読むものを納得させるに余りあるよき事例です。ここに感激した理由があります。
先生は医師と言うより教師としての天分があるのではないかとさえ思った次第です。

このホームページは多くの日本の若者に読んで欲しいと思います。
そうすれば美容に関する意識の改革になるのではないでしょうか。
美容は形ばかりでなくその生き様にあるという先生の哲学はまことに大切なことです。

私は父が漢文学者で小さい頃より四書五経に関することについては、
門前の小僧でなんとなく立派な思想書であると記憶しておりますが、
先生の愛読書が易経である事もびっくりしました。
ご承知のように明治時代に横浜の高島嘉衛門によって詳細が解読され普及した学問ですが、
なぜか占いの本として誤解されています。
しかしこの本は人生の哲学書でもあると教わりました。

全てに恐れ入りました。と同時に共感できるホームページを見ることが出来て感謝申し上げます。
有り難うございます。
今後のご活躍を心から御祈念申し上げて一言お礼といたします。

追伸
自己宣伝めいて恐縮ですが、私はこの年になっても未だ良い男でありたいと願っています。
これからの高齢者のあり方として大切なことであると自覚しています。
尚、私の趣味は狩猟に射撃です。
加えて15年近く自分のハワイアンバンドを率いて今でもライブ活動をしています。
アマチュア無線は3級で○○というコールサインで遊んでいます。」

定年まできちんと教師という仕事を全うして校長先生にまでなられ、定年後は、狩猟に射撃、ハワイアンバンド、アマチュア無線とご趣味を堪能されている悠々自適の姿は、理想的な人生ではないでしょうか?

色々な分野に精神的柔軟さをお持ちになられているということは、それだけお若いのです。
精神的に若ければ若いほど、柔軟な思考が出来ます。
人生のこれまでの固定観念をスパッと切り替えられたお姿は、立派だと思います。

日本も高齢化社会となってきていますが、それに伴っていろいろな問題が生じています。
このような方がいらっしゃると、多くの方の励みになると思い、ご紹介させていただきました。

世の中には、「若い者には負けない」という風潮がありますが、私は、それは間違っていると思っています。
二十代、三十代の方こそが、「ご年配の方に負けてはいけない。自分自身は未熟だが、負けないように立派な人となるべく頑張らなくてはいけない」と思うべきだと思っています。

御年齢などにとらわれず、ますます充実した人生を送り、あらゆる世代の方々が美しい素晴らしい人生を過ごされる事をポセンシアは応援しています。

 

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